-世の中の進歩をどこに見出していくか-

☆それを言っちゃあおしまいだよ、なのですが…

 はっきり申し上げて、私はこの数年間、メディア不信・政治不信をどう乗り越えていくかに呻吟し続けているといっても過言ではありません。

 メディア不信はともかく、「政治不信」などとは本来私の立場から申し上げるべきではないかもしれません。各組織の皆さんに政治に向き合うことの重要性をことあるごとに強調している立場なのですから。それを言っちゃあおしまいだよ、と言われかねない話です。

 言うならば私の「政治不信」はメディア不信とも一体物の所産なのです。だいたい連合に関わるメディアの取り上げ方の多くが政局とリンクさせたものであり、そのこと自体が心外であるとともに、内容が多くの場合誤解あるいは曲解に基づくものなのです。

 取材も無しに書くケースも横行しており、既に報道された憶測報道を切り貼りして一つの印象を塗り込める記事もよくあります。たとえ取材をされても、記者の都合のいいストーリーにだけ一部を切り取り掲載されることもあり、一言一句に神経を使います。

 もちろん全部が全部ではありませんし、真摯かつ信頼できる書き手もいます。しかし世の中に多く出回る記事は玉石混交で、特に政治関係のものは「石」が多いこともあり「玉」と「石」の区別が世の中には見えづらくなっています。メディア各社の上層部にも、「石」で別に構わない、耳目さえ集めればいいという判断が一部にあるようですから、書き手が育たなくなる傾向も無理はないのかもしれません。

 それはメディアの常だ、という方もおられるでしょう。しかし、それに右往左往する政治家も少なくありませんし、私たち連合の組合員もそこでつくられた負の印象の影響を受けてしまうことが、何よりも重たい事実です。悪循環を断たなければ、働く者本位の社会づくりを目指す連合の取り組みが阻害されてしまうのです。

  

☆進歩のないコロナ対応

 そんなメディア不信の渕にいる私ですが、あきらめてはならじということで様々模索もしてきました。SNSへのチャレンジもその一環ではあるわけですが、しかしこの世界に対する不信もまた別の意味で大きな壁です。ツイッターフェイスブックもなかなか難物で、片手間の所作でうまくアピールできるほどの技量はありませんし、なまじ発信をしたところで多くの誤解曲解のリアクションに見舞われるのが関の山という感じです。

 それでもアカウントを持ち続けているのは、少しずつ増えてきた連合関係・労組関係の人たちの発信に「いいね」を打ったり、あるいは我が意を得たりという内容を拡散させてもらったり、そして時には貴重な情報や、前述のようなおかしな報道を拾うことができたりという効用があるからで、辛うじてこれらのことだけを、起床後の日課にしているところです。

 何せツイッターの場合だと140字という制限があります。もちろんそのなかでなんらかの表現をすることができないわけではありませんが、トランプ前大統領の例を引くまでもなく、そこではわかりやすい感情的表現はアピールできても、その背景や経緯を含めた詳しい説明・根拠を収めることは不可能です。したがって、同じ賛意、同じ反論であっても、実は全くの同床異夢である危険性を大きく内包しているわけであり、こういう短文前提の世界でやっていくことは、少なくとも今の私の状況では不可能です。

 そのような事情のなか、せめて字数制限のない世界で私自身の存念をオープンな形で表現したいということで以前(2018年12月から)このブログを始めたわけですが、いろいろあって、これもこの一年強遠のいてしまっていました。今回は、足もとの連休中の時間を利用して、久しぶりに文章をつくっているのです。

 そこであらためて過去のブログをみて感じたのですが、果たして世の中は進歩しているのだろうか、と思わざるを得ません。

 昨年3月のブログにおいて「新型コロナウィルスがあぶりだす社会の矛盾」と題してあげつらった「命と健康」「雇用と生活」そして「経済そのものの失速」等の諸問題の状況は、本質的になんら変わっていません。

 こんなに大事な問題を、未だに同じ文脈であげつらわざるを得ないような日本の政治とはいったい何なんでしょうか?わが国の社会には根本的な問題が横たわっているとしか言いようがありません。

  

☆明るい兆しもある

 一方では明るい兆しもあります。先月27日に連合が公開した意識調査「多様な社会運動と労働組合に関する意識調査」では、十代の人たちの意識が、これまでのこの種調査からはうかがい知ることのできなかった傾向をみせているのです。

 「社会運動(オンライン含め)への参加意欲」が69.5%と年代別では最高値、そして、「労働組合の必要性」については60.0%が必要とし、六十歳代に次ぐ数値、不要と答えた4.5%は最小値という結果には、頼もしさを感じました。

 正直言って、どうしてだろう?とも思うわけですが、18歳選挙権をきっかけとした主権者教育促進モードや、連合としても粘り強く働きかけてきたワークルール教育の浸透が背景にあるのかもわかりません。あるいは春季生活闘争働き方改革等の「本業」に関わる報道の影響もあるのかもわかりません。最近試みているネットでの発信も、これらの結果につながっているのかもしれません。

 時間がかかる話ではありますが、やはりこれからの日本社会の改革は、若い世代の意識の高まりに期待するしかありません。時間がかかっても、これが王道であることは間違いありません。

  

☆分断を誘うのは誰だ?

 しかし、そこに至るまで、わが国の社会は果たして持つだろうかという懸念も拭い去ることはできません。そのくらい日本の政治は、税財政をはじめとするわが国の大きな課題を先送りし続けてきています。そしてメディアも、大きな課題に関わる政策論争よりも、耳目をひく政局優先の報道を優先させています。

 2012年の民主党政権崩壊、そして2017年の希望の党騒動が未だに尾を引いています。明らかになっていない真実も未だ多くが埋もれたままです。分断を誘ったのはいったい誰なのでしょうか?

 分断を望んでいる人たちからすれば、未だに自公政権とは異なるもう一つの選択肢がしっかりと有権者の視野に入ってこないわが国の政治構造に大いに満足していることでしょう。しかし、それは何のための満足なのでしょうか?
 連合につらなる労働運動の歴史は、イデオロギーとの闘いを含め、政治の世界からの悪影響をはねのけ、政局のいざこざと一線を画してきた歴史です。

 団結だけが可能とする「力と政策」によって、世の中の進歩を見出していかなければなりません。