― ツイッターは光か影か ―

☆罵詈雑言はつらいけど

思うところあって、2か月ほど前からツイッターに時間をさいています。

発信の頻度がそんなに多いわけではありませんが、さっそく様々な反応をいただいています。

聞いてはいましたが、罵詈雑言はネトウヨだけではないのですね。

「お前いつまで会長でいるの」

「ええかげんにせえやこのクソ労働貴族が」

「どの口が言うか恥を知れ」等々。

いや、はじめの頃はもっとひどいのもあったと記憶しています。

正直言って、どこの誰なのかわからない人からの罵詈雑言は気持ちが萎えます。「お前」とか「クソ**」とか。会ったこともないのに。

私自身も、実態はそんな品がいいわけではありません。これまでの人生のなかで大ゲンカや取っ組み合いもありました。しかし、お互いに相手がわかっているなかでの話ですから、いずれにしてもサバサバしたもんです。

それに比べて、こういう、どこの誰かわからない、会ったこともない人からの口汚い物言いはホントに嫌なもんです。まあ、発言した人はそういう気分にさせることが目的なのかもしれませんが。

しかしめげずひるまず、ストレス耐性を太くしながら続けていきたいと思います。ツイッターには「光」があると思うので。

 

 ☆「光」もあれば「影」もある

ツイッター利用者の大半の方々の動機は、世の中にある様々な事実や、それらに対する様々な意見に接したいということであろうと思います。そして、それらに対する自分自身の意見もつぶやきたい、発信したい、ということだと思います。

古今東西を問わず、そして左右を問わず、いわゆる全体主義国家の政権に共通するのは「事実を隠す」「意見を取り締まる」ということでしょうから、本来、このツイッターの仕組みは、民主主義を担う光ではないかと思います。

一方で、先ほど触れた一部の「罵詈雑言」の気風は、残念ながらツイッターへの、より多くの参入者を阻む障壁になっていることは間違いないと思います。

ツイッター若い人たちを中心にかなりの広がりを持つと聞きますが、名乗ることもなく罵詈雑言を繰り返すことへの快感が大手を振っている限りは、この先の頭打ちは避けられないでしょう。「影」が「光」をくすませていることは、大変もったいない話だと思います。

  

☆通常メディアにはない可能性

この2ヶ月、ホームページに記載されてもなかなか世の中に響かない事柄や、記者会見でいくら強調しても拾われない話が、ツイッター発でちょっとした拡がりを持ち得ました。そのことに私なりの手応えを感じてきました。

長い間に通常メディアにつくられ続けてきた旧来型イメージは、連合運動にとって百害あって一利なしです。そして一昨年の政変劇等、誤解は大きく残ったままです。

もちろん、一般紙の数千万部の発行部数に比べれば、まだ1,300にもならない私のフォロワー数など、ごまめの歯ぎしりにもならないかもしれませんが、なんとかしたいという私の問題意識は、日々膨らむばかりです。

「光」の部分の可能性に賭ける営みを、しばらく続けていきたいと思います。