― 多様性の尊重と労働運動 ―

☆若者たちのきらめく個性

「ドマーニ展」をみてきました。

六本木の国立新美術館で開催されていたこの「ドマーニ・明日展」は、まさに明日に向かってさらなる期待がされている新進気鋭の芸術家たちの作品展示を毎年行っているものです。

学芸員の資格を持つ長女が関わっていたイベントだったこともあり、久しぶりの美術鑑賞をさせてもらいました。そして、たまたま同じ時期に同美術館で開催されていた五つの美術大学の卒業展示のコーナーにもふらっと足を踏み入れたのですが、これがまた、圧倒的な個性のきらめき。絵画もオブジェも、そして何が何やらよくわからぬような造形物も、「人間って実にいろんな奴がいるんだなあ」という気付きを含めて、若者たちの息吹を感じさせる作品群。多様性と活力のあふれる空間でした。

 

 

☆欧州発の多様性尊重

話を「ドマーニ・明日展」の方に戻しましょう。

この展覧会の特徴は、その作家の大半が文化庁の「新進芸術家海外研修」の経験者であるということです。私自身、そういう制度があるということは知らなかったのですが、展示の前段に示されていた世界地図のパネルに、行先の国別実績数が示されていました。やはり多いのはフランス、イギリス、ドイツ、イタリア、そして米国といったあたり、いわゆる欧米先進国ということです。

帰る道すがら、私の頭のなかには妙な納得感が芽生えていました。「人間って実にいろんな奴がいるんだなあ」と思わせるこれら多様性の発露、それを生み出す風土、そしてそういうものがはぐくまれてきた先進諸国の歴史、これらは全てつながっているものだということです。

その太い幹は、欧州発の民主主義の発展です。「自由にものが言える」「平和が確保されている」、そういうなかでなければ、芸術は花開きません。

 

 

☆多様性を大事にできる基盤は?

私の頭のなかに芽生えた妙な納得感は、もう一つあります。これら先進国は、みな労働運動が確固たる地位を占めて、民主主義を体現してきた国々であるということです。とりわけ欧州においては、社会の包摂性であるとか、生活・雇用のセーフティーネットの整備が進められてきました。足もとでは、分断やポピュリズムの台頭といった不安要素が頭をもたげていますが、私は歴史のなかで築かれてきた流れそのものが大きく棄損することはないと思っています。多様性の発露を支え続けている社会基盤は、ちょっとやそっとで無くなるようなものではありません。

わが国では、戦前の勇気ある先達が生みだした労働運動が、戦時中の中断を経て、終戦直後のGHQの指導により復活・定着をし、今日につながっています。しかし、この間の経済発展がありながら、未だ生活者本位・労働者本位のセーフティーネットは脆弱なままです。むしろ、この二十年間で格差は拡大し、貧困の連鎖により、深刻な教育格差が生じてしまっています。

私は欧州の先進国に比べて大きく劣るセーフティーネットの問題が、今後わが国の多様性や活力を阻害することになるのではないか、そして結果として、日本の没落を招いてしまうのではないかという深刻な危機感を持っています。

このあたりの問題意識が、日頃あまりメディアに取り上げらないことを、大変残念に思っています。今年30周年を迎える連合は、ビジョンと政策大綱のブラッシュアップにより、この点の重要性をクローズアップさせていきます。

― 税金の使い方の議論はどこにいっているのか? ―

有権者の感覚と国会の状況

開会まもない通常国会、序盤は新年度予算の審議が中心となります。そしてわが国の予算審議では、いつもお定まりの事情のもとにお定まりの光景が繰り返されます。

 

お定まりその①・・・スキャンダラスな不祥事・未詳事が次々と出現し、その追及に時間が費やされます。わが国の予算委員会は国政のあらゆる重要事項を扱えることとなっており、いつもそのネタには事欠きません。

 

お定まりその②・・・ネタが多いおかげで、本来の予算の具体的な中身に関する是非の議論にはほとんど時間が割かれません。問題がなければそれでもいいかもしれません。しかし、1000兆円超というべらぼうな借金を抱え、それをなお増やし続けるこの国の予算に問題がないとはとても思えません。

 

お定まりその③・・・問題がないとはとても思えない政府原案が、結局は全く修正なしで可決成立します。今回は毎勤統計の誤りによる急遽の組み換えという未曽有(みぞう)の事態がありましたが、これも、「政府原案は無謬たるべし」というお定まりを維持させるためには不可欠の対処だったのでしょう。

 

毎日の生活で、お金を大事大事に使う大半の有権者の感覚からは遊離した状況と言わざるを得ません。そして、これら一連の「お定まり」に対する報道も、いつもお定まりとなりますから、有権者にしてみれば、どんどん国会での出来事が他人事になっていきます。

今回の統計の問題自体は、重大かつ深刻なものであることは間違いありません。だからこそ、予算委員会の限られた期間の審議だけでどうこうできるものとは思えませんが、どうなのでしょうか。別途の枠組みを設営して、徹底的な真実の究明と、防止に向けた根本的な改革案策定を進めるべきではないのでしょうか。そのような対応が当たり前となるような国会改革を願うものです。

 

 

☆軽減税率?ポイント制?~将来世代の行く末に…

有権者の意識と国会審議の状況が遊離の度を高めていくなかで、その傾向がひときわ高いのは、若い人たちでしょう。お定まりの報道ですら目にすることもあまりないでしょうし、国家予算など、どうせお上が決めるものとしかみられていないのではありませんか?

10月に予定されている消費増税にあわせて導入されるという軽減税率制度や、需要減対策という触れ込みで実施されようとしているポイント制等は、間違いなく若い世代の将来に負の影響を与えていきます。結果として金持ち優遇となり、また将来世代から財源を奪うこととなるであろうこれら天下の愚策が、お定まりの国会運営で決定されようとしています。

― 若い人たちに語り続けたい ―

☆学生たちからの反応

先週は山形大学、その前の週は埼玉大学佐賀大学ということで、ここのところ相次いで大学で講義をする機会に恵まれました。連合は教育文化協会とともに全国の20の大学で寄付講座を開設しています。その他に私が理事長を兼務している全労済協会でも、慶応義塾大学、中央大学で寄付講座を開設していることから、私自身、最近は若い人に接する場面が多くなり、非常に有難いことだと思っています。

若い人たちの反応・くいつきは年々高くなっているように感じています。講義が終わった直後にも、何人かが質問や感想を述べに来てくれることがしばしばあります。そして、そんななかで時折あるのが、労働組合っていろいろなことをやっているんですね。野党の応援ばっかりかと思っていました」という感想です。

あらためてマスコミ報道の影響力の大きさを感じます。考えてみれば確かに、「連合」を紹介するときに「旧民主党の最大の支持母体の連合」という、余計な修飾語が頭にくっついているケースがよくあります。私たちは「母体」でもなんでもないし、政治ばっかりやっているわけでも全くありません。

もちろん春闘働き方改革もそれなりに報道はされるものの、このへんのテーマは官邸の巧みなマスコミ対応も功を奏していて、若い人たちには、お上から与えられているものという解釈が流布しているフシがあります。そんななかで若い人たちの先ほどのような反応は無理のないことなのかもしれません。

たとえ不慣れなにわか大学講師であっても、たとえ時間のかかる地道な積み重ねであっても、これからを生きる若い人たちに、本来の労働運動の大事さを感じ取ってもらう取り組みは限りなく重要だと感じています。

 

 

☆なんでこうなってしまったのか?

もちろん政治との関係も正しくお伝えしていかなければなりません。私の講義は「働くことを軸とする安心社会に向けて」というタイトルで、「労働組合とは?」という基本論や連合の政策パッケージの骨を一通りお話した後に、「私たちはどういう社会に生きているのか?」、「将来を展望するときに何が課題か?」という、私自身が最も若い方々にお伝えしたいメインのお話をさせてもらっています。

「今」の断面だけをみれば、私たち日本人は、世界のなかでも極めて恵まれた状況で日々の生活を送っています。テロも戦争も飢餓もありません。格差拡大の問題や災害の心配はつきまといますが、多くの人々は豊かな暮らしを享受しているといえましょう。しかしここから先はどうなのか?

1,000兆円を超えて、なお積み上がる財政赤字や、将来構想を欠いた社会保障と税制、激変の進む雇用構造と脆弱なセーフティーネット・・・。

そして、本来であればこれらの政策課題を直視すべき政治(与野党)の惨状と、それを許してしまっている有権者の問題。年々低下する一方の投票率、とりわけ若年層の投票率は30%台になってしまっている現状等々。なんでこうなってしまったのか・・・。

そして、必ず付け加えます。「投票率が低いからといって、あなた達を責める意味で言っているのではないのです。私を含めた上の世代がこういう国、こういう雰囲気の社会にしてしまったのです。だからあなた方は知らず知らずのうちに、こういう社会の空気に染まってしまっているのだということを認識してほしい」と。

先進諸国のなかで際立っているわが国の主権者教育の遅れは深刻だと思います。負の遺産若い人たちに負わせてしまっているのです。

 

 

☆主役は誰なのか?何をすべきなのか?

最近の政治の問題を考えるとき憂慮せざるを得ないのは、主役が誰か?あるいは、主役は何をすべきなのか?ということが、どんどん曖昧になっているということです。

政界の様々な動きの主役は、個々の政党や政治家でしかありえません。私たち有権者の立場は「観客」であり、また、ときに「応援団」です。しかし、どうも最近の主役の方々は、観客や応援団が自分たちに何を求めているのか、どういう姿を見たいと思っているのかが、あまりよく理解されていないように思われます。

私たち有権者は一方で、政治家を選ぶときは主役です。その役目は果たさなければなりません。どういう政策を実現してもらいたいのか。どういう人にがんばってもらいたいのか。はっきりと意思表示をしていかなければなりません。しかし、その「主役」を演じるべき権利と義務を、年々、ないがしろにしてしまっています。

お互いのこの曖昧さが何をもたらすのか、行きつく先に何が待ち受けているのか、若い人たちに語り続けたい、問い続けたいと思います。

― 春闘とマスコミ報道の奇妙な関係 ―

☆「官製春闘」からの脱却?

春闘に関する報道が盛んになる時期を迎えました。春闘が報道の対象になること自体は有難いことですが、そこに差し挟まれる論評には素直に喜べないものも多々あり、神経のとがる時期でもあります。

マスコミ報道によれば、今年は脱「官製春闘」なのだそうです。おかしな話です。「政労使春闘」ならばわかりますが、そもそも「官製春闘」はフェイクです。ありもしない「官製春闘」という名前を勝手につけておいて、そのうえで今年は「脱」だなどということ自体が意味を持ちません。意味を持たないだけで済めばまだしも、様々な害毒を流し続けてきたので困ったものなのです。

害毒その①。

世のなかの多くの企業経営者にとって、安倍総理が「賃上げを」と言ったところで「はいわかりました」という経営者がどれだけいたのでしょうか? もちろん経団連の会員企業等、名だたる企業の経営者は、マクロ経済との関わりを含めて総理発言の意味合いは受けとめたかもわかりません。しかし、日本全体で200万人を超えるであろう社長さんの大半は、マスコミが「官製春闘」と言う言葉を使えば使うほど「自分は関係ない」と思い、賃上げには踏み切らなかったのではないでしょうか。

害毒その②。

労使交渉を真剣に行っている当事者にしてみれば、「官製春闘」という言葉ほど、人を馬鹿にした言葉はありません。各労使の交渉当事者は皆、そのような表現を平気で使うマスコミを嫌悪し続けています。そして、そういうマスコミを遠ざけたくなるのは、人の自然な情というものでしょう。対照的に、政府側は心地よい。賃上げ回答を得たところの組合員には、「総理のおかげで賃金が上がった」という潜在意識が刷り込まれますから、政府側は心地よいでしょう。

政府とマスコミの蜜月はすすみ、官製報道も盛んになるので「官製春闘」というネーミングだったのでしょうか? そこから「脱却」するのであれば、それはもちろん望ましいことですが…。

 

 

☆トリクルダウン的思考に埋没したまま

私は、マスコミとの間のそういう不幸な関係をそのままにはしたくないと思っています。取材は必ず受けます。あらゆる疑問に向き合います。しかし残念ながら、先入観を持っている人であればあるほど、人の話を聞こうとはせず、どうやってケチをつけるかからまず入ります。一方的な持論を世にまき散らします。

先日、ある全国紙系の経済紙に「淡雪のごとく消える春闘」と題して、このままでは春闘がなくなるが、それでも「自社型の賃金決定に個々の企業が取り組めばいい」とする小論が掲載されていました。

世の中、中小企業にスポットが当たってくるなかで、「そろそろ賃上げしなければまずいかな」と思っていた企業経営者からすれば、涙の出るほどうれしい言説ではありませんか。「そうか、『自社型賃金決定』でいいのか。無理はすまい。賃上げはやめておこう。」。

ご丁寧に1975年の太田薫旧総評議長の「春闘の終焉」と言う言葉まで持ち出して、それがやってきたとおっしゃっているのです。この小論の筆者は、大手が威勢のいい金額要求をすれば、世の中全体の賃上げが向上するということしか考えられないのでしょう。インフレ時の春闘カニズムに根差した発想であり、トリクルダウン的思考に埋没したままとしか言いようがありません。私に言わせれば、そういう埋没こそが失われた二十年間を生じさせてしまったのであり、格差の拡大を生んでしまったのです。

時代錯誤では私たちは闘えません。「ほっとけばいい」という声が聞こえてきそうですが、そういうわけにはいきません。この経済紙は15万部ほどの発行部数があるようです。さらに、ネット配信されたものへの閲覧はこれにとどまらないでしょう。こんな言説から影響を受けた多くの中小企業の経営者がこれを言い訳にして、「自社型賃金決定」でステイされては困ります。だいたいが労働組合も存在せず要求も受けない社長の皆さんでしょうから。

 

 

☆論客を待望します

この小論は「絶対額で大手も中小も同額を獲得できるのならばよいが、そんな力が労組側にあれば賃金格差はとうになくなっていたはずである」とも述べています。私たちが、上げ幅だけではなく絶対水準にもこだわるとしたことに対するアンチテーゼでしょう。絶対額へのこだわりを「建前」とおっしゃっているのです。しょせん中小は大手を上回れないという発想なのでしょう。

ここ数年、連合のなかでは中小の賃上げ額が大手の賃上げ額に年々近づいており、肉薄をしています。ベアをカウントできるところは、既に逆転しています。ここ三年間は、過去20年間の格差拡大からの反転の趨勢にあるのです。

もちろん、ここから先が大変です。20年間に蓄積された格差は一朝一夕には取り戻せません。しかも、肉薄しているのは連合内部だけの話です。圧倒的に多くの労働組合不在企業においては、まだ賃上げ自体が絵空事でしょう。その構造を変えていかなければならないのです。私たちは、構造を変えていくための問題提起をしています。

「ひとりひとりの労働者は実際にどれだけの賃金を得ているのですか?」

「なぜ賃上げできないのですか?」

「取引慣行に問題があるのではないですか?」

 

真の論客を待望します。

― 資本主義のカギを握るものとは ―

☆おせち番組だけではない年末年始

年末につくりだめされるいわゆる「おせち番組」が概して面白くない一方で、ドキュメンタリー等の特集番組が充実していることは大変ありがたいことです。最近のニュース報道は政府から流される官製情報やヨイショ的な伝え方が目立っているだけに、これら特集番組の内容が本質を外すことなく、私たちに様々な気付きを与えてくれていることに感謝したいと思います。普段見落としていることの多い私としては、良質な教材に恵まれ大変勉強になった年末年始でした。

  

☆「歴史的な分岐点」の気付き

いくつかみてきたなかで印象に残ったものの一つにNHKBS1スペシャル「欲望の資本主義2019 ~偽りの個人主義を越えて~」がありました。これは三年前から毎年のテーマ設定により制作されているシリーズです。2017、2018のバージョンとともに一挙放映され、大変充実した内容のものでした。世界の知性を代表する有識者のコメントはそれぞれが奥深いものであるわけですが、一編で二時間弱の番組で展開されたそれら全てをここで説明することはもちろんできません。ケインズVSハイエクの学説論争や新自由主義をめぐる綱引きの歴史、あるいはGAFA(グーグル、アマゾン、フェイスブック、アップル)のトータルの時価総額がドイツのGDPを上回るまでになった現代の様相等、一つひとつが分厚い中味です。しかしこれら一連の教材から得た気付きで、ある意味私が勝手に感じ取ったのは、私たちは、①資本主義というものを本当の意味で人類の役に立つものとしうるのか、ということであり、そしてそれは②民主主義を本物にし得るのかという点と軌を一にするものであること、そして③その世界史的な分岐点に私たちは存在しているのだ、ということでした。

  

☆美人コンテストではだめ、ギャンブルでもだめ

ケインズは株式市場を美人コンテストに例えました。言い得て妙な表現であるわけですが、しかし一方で番組はこの点をさらに掘り下げるなかで、現在の株式市場の抱える問題点を言い当てていたように思います。

美人コンテストは、トップを当てた人にご褒美が出るとなると、「自分が良い」と思う対象ではなく、「たぶん皆が良いと思うだろう」という対象に人々は投票する、というのです。他人の顔色をうかがうことに注力するというのです。

ここから先は私の頭のなかでの説を勝手に膨らませた言辞になり、話はやや飛躍するのですが、例えばわが国の足もとの株の乱高下などをみても、何かその種の自信の無さというか、主体性の欠如のようなものを感じます。自分の信念に基づいて、「この企業を」「この事業を」育てよう、という信念で投資をしているのであれば、ここまで右往左往しなくていいように思えるのです。

こんな感想は、その道のプロからみればなんとプリミティブな物言いかと思われるでしょう。私自身、投資といえるようなことはほとんどできていません。そもそもあなた任せのギャンブルのようなマーケットに対しては素人は怖くて手が出せないのが実情でしょう。

個人投資家が育たないというわが国の状況はこんな悪循環が災いしていることは事実でしょうが、もう一つ見過ごせない本質は、大半の大衆からしてみれば、いわゆる株式市場などというものは、「他人事」だということです。投資をしている人たちですら風頼みなのですから、さらに縁遠い人にしてみたら、全く関係ない世界なのです。

 

 ☆あなた任せでは育たない

ちょっと気の利いた金儲けのできる人間があっという間に億万長者になるのが現代社会です。その一方で圧倒的多数の大衆には資本主義の果実はますます無縁なものになってしまっている。これではマーケットは永久に育たないのではないでしょうか。ひずみばかりが大きくなり、ますますギャンブル化していくのではないでしょうか。

そしてわが国においてはこの「あなた任せ」は政治に対する無関心の増大と二重写しになっているように思えます。本来は私たち一人ひとりがプレイヤーのはずです。単なる観衆ではないのです。一人ひとりが主体的な主張のもとに関わっていくべきものなのです。

しかしそのことがほとんど忘れられようとしています。たとえ「コンテスト」であっても「いい勝負になる」と思えば投票者は増えるのでしょうが、「これじゃ話にならない」となれば、足そのものが遠のくことでしょう。

今年は統一地方選参議院選挙が続くという12年に一度の年ですが、今のままでは歴史的な低投票率になるという懸念を禁じ得ません。

― 世界の行方と労働組合 ―

☆真っ二つに割れたITUC世界大会

12月2日から7日まで、デンマークコペンハーゲンにおいて世界中の労働組合ナショナルセンター)が集まり、国際労働組合総連合(ITUC)の世界大会が開催されました。

例によって日本のマスコミには全く報道されませんが、公式の内容はITUC本部のサイトに載っており、それなりの情報は得ることができます。しかしそれだけでは事の本質はつかみきれないわけで、今回は非公式のものも含めて、労働組合ウオッチャーの皆さんにミニレポートを提供させていただきたいと思います。

最大の注目点は四年に一回の書記長選出、世界の労働運動をリードするトップの決定でしたが、今回は投票を伴う選挙で、下馬評通り、真っ二つに割れた闘いとなったところです。結果はシャラン・バロウ候補(現書記長)が約5480万票、スザンナ・カムッソ候補が約5020万票ということで、残念ながら我々が推したカムッソ候補は惜敗しました。(票数は会費納入人員相当、連合は約615万票)

 

 

☆ここから積み上げる4年間

結果としてバロウ書記長は彼女の三期目を継続して担うこととなったわけですが、彼女のこれまでの専横ぶりを知る事情通からは、連合として大丈夫か、きつい対応を迫られないかというご心配もいただいています。

ご心配なく。今回惜敗とはいえ、必ずしも知名度が高くなかったカムッソ候補が全体の48%もの票を得たことは、早速にして効力を発揮しています。決着がついて、翌日の執行委員会と引き続く大会の議事において、画期的な二つの内容が確認されました。

一つは、ITUCの運営に関しての改善方向が「声明」として大会で確認されたことです。これは、この間、連合が最も連携を密にしてきたドイツのナショナルセンターDGBをはじめとした有志が提出した決議案の内容が反映されたものです。そしてもう一つは人事です。核となる本部執行部人事は、書記長の意向をもとに執行委員会・大会が追認する慣わしですが、これまでのイエスマン傾斜的な構成から脱し、カムッソ陣営の意向により、直言人材も含んだ構成となりました。ダボス会議のような国際舞台では弁舌のさわやかさが光るバロウ書記長ですが、地域・加盟組織等の末端の声を重視するとか、財政の透明性を担保する等の、内部運営の改善は喫緊の課題です。新しい四年間、ここから積み上げていくための構えだけはなんとか確保した、そんな思いのなか、大会は閉幕しました。

 

 

☆ITUCの役割と責任

非公式な動きとしても、今回、大変重要な流れが形づくられました。投票行為が必至、しかもほとんど世界を二分する、という感じになり始めた昨年の年央から、イギリス(TUC)、アメリカ(AFL-CIO)、ドイツ(DGB)、ロシア(FNPR)、そして日本の連合を加えた主要ナショナルセンターのトップ5人で、分断を回避するための会話を重ねてきたのです。

当初はなんとか投票を回避できないか、という模索もありましたが、最終的には、たとえ投票態度は割れたとしても、事後、結束のための力合わせは必ず継続していこうという申し合わせを確認してきました。そして、新書記長の運営改善に対するチェック&フォローも随時共同でしていくことになったところです。

私自身、この一連の動きに深く入り込んできました。

途上国の働く仲間が貧困から脱却していくためには、まともな労使関係をいかに根づかせられるかが鍵です。「労使関係」には、付加価値を生み出し、公正な配分を行い、生活原資を確保するという極めて重要な機能が備わっています。テロや戦争も「衣食足りて礼節を知る」がなければ、いつまでたっても無くなりません。ITUCはその運動基盤であり、大きな役割と責任があります。しっかりとした運営は不可欠です。

― 台湾での一言 ―

中華民国全国総工会70周年

 

 日本の報道ではほとんど扱われたことがありませんが、世界の労働組合はITUC(国際労働組合総連合)という世界組織で結ばれており、連合もその主要な構成組織の一つです。(実はこのITUCで今、侃侃諤諤の議論が進行しているのですが、そのことはまた近いうちにご紹介したいと思います。)

 先日このITUCのアジア・太平洋地域組織(ITUC・AP)の執行委員会が台湾で行われました。ITUCでは共産主義を国是とする大陸中国の中華全国総工会とはお互いに一線を画したなかで、台湾に拠点を持つ中華民国全国総工会(CFL)が加盟組織として参画をしています。大陸中国の中華全国総工会とは種々の意見交換を行う関係は持ちながらも、歴史的経過も踏まえつつ、組織の括りとしてはお互いに一線を画して今日に至っています。

 このたび、このCFLが創設70周年を迎えるにあたり、ITUC-APの執行委員会が誘致をされました。

 

  

☆台湾の活動家との出会い

 

 執行委員会終了後に催されたCFL70周年記念、11月13日のレセプションでのことです。

 労働大臣の祝辞の際、当初の予定の通訳さんが専門用語で苦労されているなかで、見かねて急遽、ピンチヒッターが指名されました。その後の英語通訳は「なんだ、最初から彼がやればよかったじゃないか」と我々が思ったほど、急遽の代役にもかかわらず流ちょうなものでした。その後、懇談の席を移動した際、彼と目が合い、どちらからともなく名刺交換に進みわかったことは、彼が、Serve the People Association というNGOで主任を務める汪英達(Won Ying-Dah)という人であったということです。

 台湾ではいわゆる外国人労働者が70万人、人口比で言えば日本の三倍規模の受け入れをしています。とりわけ介護の世界は、外国人材抜きには成り立たない状況となっています。彼のNGOは、その外国人労働者の駆け込み寺的機能を果たしている団体なのです。元々CFLで働いていたという彼とのしばしの懇談は、非常に印象深いものでした。次の予定があって席を去らなければならない旨を告げた私に彼は、「一言だけ是非聞いてください。民間の団体に任せてはダメだということです。この一言です。」

 外国人材の問題に関わっている方々であれば、すぐわかると思います。日本の技能実習制度でいえば「監理団体」という組織が設定されているのですが、まともな団体がある一方で、相当規模の団体は、彼らの処遇条件や人権を監視し、守るどころか、悪徳ブローカーのように実習生を食い物にしているのです。年間ベースで1万人近くの失踪者が生まれるような、違法と人権侵害の実態をつくりだしているのです。現在、政府がしゃにむにスタートさせようとしている新制度では「登録支援機関」というものが設定されます。悪徳組織の温床になりかねないという関係者・有識者の心配は当然のものと思います。

 汪さんはそのあたりのことを、最大の問題として直感的に指摘したのでしょう。

 

 

☆「一言」に込められた思い

 

 今回、入管法改正の法案審議の前段から巻き起こった外国人材拡大に関わる議論、この議論はもっと早くにやっておくべきだった、という主張があります。私もそれはそうだと思います。国民的議論が決定的に不足しています。そして、本格的な移民政策の議論を怠ってきた日本だからこそ、この間に生じてきたあまたの矛盾を全て俎上にあげて、そして悲劇的な事例に目をおおうことなく、トータルの議論をしていくべきです。そして、これまで中途半端な対応しかとってこなかった日本、「後発」の日本だからこそ、海外での様々な知見から教訓を得て、そのことを活かした制度設計をすべきではないでしょうか? 台湾で受けとった一言に込められた思いは、私の頭のなかで日々大きく膨らんでいます。(了)